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8月 高卒都婆慰霊祭
高卒塔婆慰霊祭

平成27年8月6日、小郡市大保原の高卒都婆(たかそとば)で慰霊祭が行われました。 

高卒都婆は1359年に起きた大保原(大原)合戦の戦死者5,450余名を供養するために建立されました。 

この日は田中西島区長の開催のことばに始まり、高卒都婆保存会会長・長野大保原区長、小郡市の清武教育長の挨拶を経て、明願寺の久保山住職の読経のもとで、地元の方々、陸上自衛隊、市役所、市議会議員、ワイドレジャーの関係者による焼香がなされました。

高卒塔婆慰霊祭
高卒塔婆慰霊祭
高卒塔婆慰霊祭
高卒塔婆慰霊祭
高卒塔婆慰霊祭

最後に久保山住職のご挨拶がありました。


各地の合戦を記念する行事は多くありますが、この慰霊祭のようにひたすらこの地に眠る霊を慰める静かな行事は見たことがございません。

高卒都婆の後ろにある大木はまるで観音様のようであり、高卒都婆を包んでいらっしゃるように見えます。

今日は広島に原爆が落とされた日であり、かつての戦死者を慰めると共に平和を願います。

高卒塔婆慰霊祭
高卒塔婆慰霊祭

大保原(大原)合戦とは

・川中島の戦い(1561年、武田信玄vs上杉謙信)

・関ヶ原の戦い(1600年、徳川家康vs石田三成ら)と並び、日本三大合戦に数えられるほど激しい戦いであったと言われています。


合戦に至る経緯

源頼朝を征夷大将軍とした鎌倉幕府の成立により、日本は武士による支配が始まりました。
鎌倉時代半ばより皇統が二分し、大覚寺統と持明院統に分かれ、鎌倉幕府の仲介のもとで交互に皇位継承がなされる事態が続きました。

天皇による親政を目指していた大覚寺統の後醍醐天皇は、全国の武士に倒幕を命じました。呼応した足利尊氏や新田義貞によって鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇の親政が始まりますが、恩賞功労等が原因で不満を抱く武士も多く、日本国内は混乱しました。

足利尊氏は後醍醐天皇に離反し、新たな武士の棟梁として京都に室町幕府を開き、持明院統(北朝)を擁立しました。
後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れ、新たに朝廷を開きました(南朝)。
そして反足利派の支持を得るために、自分の皇子たちを全国各地に派遣しました。

九州には征西将軍宮として幼い懐良親王が派遣され、瀬戸内海を経て薩摩に上陸し、数年をかけて北上しながら菊池氏等の勢力を得ました。
当時の北部九州は、1274年の文永の役、1281年の弘安の役で大陸から元(モンゴル帝国)・高麗連合軍の侵攻があった事からわかるように、東アジアの中でも重要な位置にありました。

博多、大宰府の実権を握ることは、諸外国に対して日本国内での高い地位にあることを証明するもので、足利氏に従う少弐氏を中心とする北朝と、懐良親王を擁する南朝方は北部九州の覇権を巡り、激しく争うことになります。


大保原(大原)合戦

1359年夏、筑後川を挟んで、少弐氏を中心とする北朝方と、懐良親王を始めとする南朝方は、小競り合いから始まり、8月6日の夜襲をきっかけに合戦の火ぶたが切って落とされました。

双方ともに大保原一帯に両陣を構え、8時間にも及ぶ大激戦が続き、南朝方の勝利という結果ではありましたが、懐良親王自らも敵陣に斬って入り負傷し、北朝方も少弐頼尚の子・直資が戦死するなど、両軍合わせて多くの戦死者負傷者が出ました。


合戦の後

この後、日本国内では北朝方が有利な状況でしたが、懐良親王を擁する南朝方は九州を支配下に置きました。

当時は東アジア全体が混乱期にあり、中国では朱元璋(洪武帝)が皇帝となり明王朝を建て、元(モンゴル帝国)を壊滅させました。
明は九州の覇権を握っていた懐良親王を日本国王とみなし、倭寇の鎮圧を要請するなど、外交を結びました。
このように、南朝方による九州の支配は、1372年に室町幕府より九州探題として派遣された今川了俊に大宰府を落とされるまで続きました。

 

1383年、懐良親王が逝去。
1392年、室町幕府三代将軍・足利義満の時代に南北朝の合一が成立しました。


高卒都婆建立のきっかけ

昭和47年(1972年)、かつて戦いが行われた大保原に陸上自衛隊の自動車訓練場が開設されましたが、間もなく隊員による落ち武者の亡霊を見たとの目撃談が続きました。

この怪奇現象はワイドショーの取材で全国に放送され、オカルト系の本にも掲載されました。

夜な夜な現れる落ち武者の亡霊を見て睡眠不足に陥ったり、近くの商店に線香を買いに現れる隊員も多数いたため、地下に眠る戦死者の供養、慰霊のために高卒都婆が建立されました。

昭和47年8月7日、かつての激戦が集結した日を選び、盛大に慰霊行事が営まれ、その後、毎夏継続して営まれています。

その後、地元を中心に「高卒都婆を守る会」が発足し、現在は「高卒都婆保存会」と名称が変更され、東野校区区長会会長が会長を兼任することとなっています。